喪失されたパトス
5日から今日までココログのメンテナンスのため、書き込みも、コメントへの返事もできませんでした。コメントをくださった方、あるいはこのブログに立ち寄ってくださった方に、お詫びいたします。
NHK国際放送への、政府からの放送命令が下った。ほんの一瞬だけマスコミへの政府による介入との声が出た。しかし一月も経たないというのに、いつの間にか忘れられている。朝鮮半島北部に拉致された日本人へのメッセージを盛り込むようにという命令は、そうした政府命令を正当化する手段でもあったのだろう。
2001年にNHKで放映された、「戦争をどう裁くか」、「問われる戦時性暴力」では、「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」(バウネットジャパン)が、NHKと制作会社への番組改編に対する慰謝料を求めて提訴している。しかし一審では2004年3月、孫請け制作会社の「ドキュメンタリージャパン」のみに100万円の支払いを命じた。
「ドキュメンタリージャパン」の代表の女性と、すばらしい作品を作り続けているディレクターの女性には、以前世話になったことがある。とても悔しい思いだ。しかも原告側証人に、ディレクターの女性の後輩にあたる女性が立つこととなった。そのことを本人(彼女も人権問題のすぐれた作品を作っている)から聞き、日本軍が犯した性犯罪を裁くという、一致した視点で闘ってきた人同士が、原告と被告となることに、激しく虚しさを持つしかなかった。
この事件では、2005年1月13日に、NHK担当職員の長井暁が内部告発記者会見をおこなっている。朝日新聞では、当時の安倍幹事長代理と中川昭一元経産相による圧力を指摘している。その後係争中となっているようだが。
過去にも政府による放送への介入に、明確な意思表示をした事件がある。1968年のTBS闘争だ。TBS社員への処分に抗議し、労働組合とTBSのあいだで100日にも及ぶ闘争となった。
報道部にいた村木良彦と萩元晴彦が、スタジオ課へ配置転換された。これは、萩元晴彦の「現代の主役・日の丸」、「あなたは……」(寺山修司が制作に関わっていた)が、政治的に偏向しているとの理由と、村木の「わたしのトゥィギー」「わたしの火山」が難解だったという理由だった。
また、村木が担当していた報道番組「ニュースコープ」のキャスターだった田英夫の、ベトナム戦争現地取材「ハノイ・田英夫の証言」は、政府の圧力により田英夫の解任にまで至っている。
村木、萩元の配置転換の5日後には、成田事件がおきている。成田闘争を取材していたマイクロバスが、反対派集会に参加する農婦7人を便乗させたことで、政府・自民党がTBSを激しく非難し、TBSは担当記者、報道局幹部への処分をおこなった。
そうした政府による介入への抗議を込めた闘争であった。
闘争後、村木、萩元、そして「七人の刑事」のディレクターであった今野勉など25名が退職し、「テレビマンユニオン」を創設している。
そうした経緯の中で勘ぐってしまったことがある。「七人の刑事」のビデオテープがすべて処分されているということだ。一本だけ16ミリフィルムで撮影されたものと、第100話のビデオテープだけが残っているらしい。
放映は1961年から1969年までである。同局で1966年から放映されていた、渥美清の「泣いてたまるか」はDVDブックとして、全放映分が昨年販売されている。おかしな話ではないか。
昨日書いた「七人の刑事」の中の一話、拳銃を自作した青年の話は、もうどこにも存在していない。筋を追うこともできない。ただ記憶の中で、銃を持ち叫ぶしかない青年の姿を持ち続けるしかない。青年の姿にかぶり挿入される、西田佐知子の「涙のかわくまで」を聞くたび、俺はこの手に自作の拳銃を握り締めている錯覚を持つ。
救いは、唯一フィルム撮影された作品が、佐々木守脚本、今野勉演出の作品であることだ。「二人だけの銀座」。サイトである人が、記憶の中のあらすじを書いていた。自由劇場を主宰している吉田日出子と、寺田農が恋人役を演じている。
千葉の海岸で吉田日出子は、若者たちに寺田農の目の前で誘拐される。寺田農は恋人を探し銀座まで来る。刑事たちと銀座で恋人の姿を探し、ついに見つけ出す。しかし吉田日出子は東京での生活を選ぶ。若者たちとの生活を選ぶ。彼女の気持ちを知った寺田農は、叫び声を上げながら路上へ飛び出し、通行人を持っていたナイフで刺す。
その場で、同行していた刑事たちに逮捕された男の名を、吉田日出子が叫ぶ。その画面に歌謡曲「二人だけの銀座」がかぶる。映像を観なければその画面の不条理性をなかなかわからないだろう。単に都会生活のあこがれてしまった女と、千葉という地域での生活を守ろうとする男の気持ちのすれ違いではない。そこにあった暗喩が、高校生だった俺を激しく揺さぶった。
女が逮捕された男の名を叫び、「二人だけの銀座」がかぶるラストは、ピエトロ・ジェルミの「刑事」のラストを想いおこすが、それが模倣ではなく新たな世界を作り出していると感じることもできた。
大島渚とも仕事し、若松プロだった足立正生や、無頼のジャーナリストでアナキストでもあった竹中労とも仕事をした佐々木守の本を、今野勉が見事に映像化している。
佐々木守はこうも言っていたという。「今でも機動隊の装甲車を見かけると怒りがこみ上げて体が熱くなってくるんですよ。なぜ今の若者は国に怒りを持たないのだろう」。1960年代後半、「新左翼」にシンパシーを表明し、アイヌ民族解放や琉球独立運動をも支持していた彼の想いの強さが、書き上げられた脚本となり、今野勉による映像となっていた。
60年代という時代は、テレビも、スクリーンも、舞台も、熱い情念をたぎらせていた。今そのパトスがなぜ失われてしまっているのだろうか。取り戻したい。「俺たち」という言葉の復権とともに、パトスを取り戻す作業をし続けたい。
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